これまでありとあらゆるシニフィエが同一であったことって一度もない。
同一やトートロジーも嘘だ。
ある記号が同一であり続けることが不可能であるということが多くの問題を生んでいる。

昨日の発話における
リンゴ のシニフィエ
今日の発話における
リンゴ のシニフィエ
同一でないならば(例えばリンゴが可算的か、劣化しているか、特定のリンゴであったか、単数か複数かなど)プロトコルが成立しない。

これは本来単一的である世界を分節して、差異による構造を構築しているから発生するもので、太極図にあるように黒は白になりうるし、白は黒になりうる。
この二項対立の動きはデリダ脱構築という言葉で同じことを言っている。

ここから敷衍するに、
我々は本来死んでもいないし生きてもいない。
なぜなら生死の二項対立は虚偽だから。

言語という差異化構造を"道具"とするのであれば、生死はどのようにでも定義できる。
シニフィアンに拘束されるシニフィエが同一であることがこれまで一度も存在しなかった、もっと言えばシニフィアンという言語学的な形態すらも通時的な変化に晒されるのであれば、シニフィアンシニフィエはどのようなものでもいいはずだ。
これにより人間は死や、あらゆる言語的なしがらみや喪失から解放される。